■約束の星
益州成都の城内広場に、花の姿があった。先刻からずっと、しきりに頭上の梢に向かって話しかけている。そばを通り過ぎて行く者たちが不思議そうに眺めていたが、本人は気づいていなかった。
「翼徳さん、師匠が待ってますから」
花がそう投げかけると、翼徳の声だけが返ってくる。
「明日、必ず行くから、見逃して?」
「だめですよ」
「う……」
「私もお手伝いしますから、全部片づけちゃいましょう」
「ほんと?」
「はい。最近、報告書の書き方を教えてもらったんです。それに、終わったら、師匠がおやつくれるって言ってましたよ」
花の最後の言葉で、枝がたわみ、梢がガサガサと揺れた。
ようやく目の前に降りてきた翼徳に、花はにっこりとほほ笑んだ。
花が翼徳を孔明の執務室に連れてくると、孔明は目を細めた猫のような笑顔で二人を迎え入れた。
「ようこそ、いらっしゃいませ、翼徳殿。お待ちしておりました」
「ご、ごめん……」
穏やかな笑顔が穏やかでない意図を含んでいることは、物事をあまり深く考えない翼徳にもわかった。きまり悪そうに大きな体が縮こまる。
「準備は済んでおりますので、そちらでどうぞ」
示された先には机と筆記用具が一式揃えてあった。
「終わるまでは他の執務は一切しなくていいように取り計らっておりますから、ご心配なく」
「はあい……」
「二人でやればすぐ終わりますよ」
うなだれながら机に向かう翼徳を、花が励ます。
「……ごめんな?」
翼徳は情けない顔で、花に謝った。
本来であれば、すべて翼徳が片づけなければならない仕事だった。それを放り出して逃げ回った挙句、手伝わせるという状態に、翼徳としては言い訳のしようもない。
「彼女の勉強にもなるので、お気になさらず」
「はい。大丈夫です」
当の本人よりも先に孔明が答えて、花もそれに頷くと、翼徳はほっとしたように表情を和らげる。
「とはいえ、あまり頼りにされるのも困りますので」
孔明がくぎを刺すと、翼徳はまた眉を下げる。
「うう……、そうだよな」
「早急に優秀な補佐官を探します」
「それって、これからは逃げられないってこと……?」
眉を八の字にした翼徳に、孔明はにっこりとほほ笑んだ。それは広場で花が浮かべたほほ笑みに似ていたが、真意はまったく別の類のものだった。
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